凍てつく阿武隈山地 冬の野菜は大根、白菜、芋がら……
太平洋岸のいわき市は2月末というのに気温15度。コートを着ると汗ばむほどだ。映画「フラガール」では、粉雪が舞う寒々しい常磐炭鉱をうつしていたが、福島の太平洋側・浜通の冬はおだやかな晴天がつづくのだ。
阿武隈山地を横断する磐越自動車道を西にはしると、気温がぐんぐん下がる。標高300メートルの二本松市・布沢集落にある農家民宿「遊雲の里」に着くと1度になっていた。
陽当たりの悪い棚田は雪がおおっている。
ふるえながら車をでると、菅野まゆみさんがのんびり声をかけてきた。
「きょうはおだやかであったかいですよぉ」
その言葉でますます寒くなった。零下10度に下がる日もあるらしい。
翌朝、日陰の路面はパリパリに凍り、夏にホタルが舞っていた棚田のビオトープはスケート場のような厚い氷でおおわれていた。
菅野さん宅は12月に白菜や大根を収穫すると農作業は終わる。真冬は土が凍りつくから露地物の野菜はできない。1月の作業は、ビニールハウスの枯れたトマトなどをかたづける程度だ。
納屋に大根や白菜をつみあげ、毛布や布団、藁をかけておく。
「人間がつかわなくなった布団は野菜がつかうんだ。SDGsだよね」
菅野正寿さんは笑う。
里芋の茎は、霜が降って寒くなったころに皮をむいて干す。あたたかい時期だとカビがはえるからだ。カラカラにかわいた芋がらを水でもどしてみそ汁や煮物にする。
青菜がない冬はこうして保存した野菜をくいつなぐ。
春の訪れを告げる浅葱
春がちかづいていることを最初におしえてくれるのは浅葱(あさつき)だ。
浅葱はもとは山菜で、食用ネギのなかではもっとも細く、イトネギとよぶ地域もある。8月に球根をうえて11月には収穫できるが、寒さに強いから凍った土のなかでも生きつづける。土の上にビニールをかぶせておくと、陽当たりのよいところでは2月半ばから収穫できる。
東北では春一番の貴重な青物という。
熱湯でさっとゆでて、酢みそ(白みそ大さじ1.5+酢大さじ1+砂糖大さじ1)をあえると、球根の甘みとわずかな苦みが春をかんじさせてくれる。
養蚕4カ月で400万円の売り上げに
菅野さん宅の母屋の隣には、間口14間、奥行き7間の土壁の建物がある。かつては蚕屋としてつかわれていた。
幕末から第2次大戦がはじまるまで、生糸は日本の最大の輸出産品で、福島県は群馬県に次ぐ養蚕地帯だった。
NHKの連続テレビ小説「エール」の舞台となった川俣町は養蚕がさかんで織物工場があったため、国鉄川俣線(12.2キロ)が1972年まで福島市とのあいだをむすんでいた。「おかいこ」による繁栄で、東北初の日本銀行の出張所は福島町(福島市)にもうけられた。
東和町でも、敗戦直後の混乱がおさまるにつれて養蚕が復興し、1953(昭和28)年には全農家1784戸のうち7割の1280戸が養蚕にたずさわった。
菅野さん宅も、夏場の4カ月間は養蚕に従事して2トンの繭をとっていた。最盛期の1975年には繭1キロ2000円だったから、400万円の売り上げになった。
山を階段状にきりひらいた2町(2ヘクタール)の桑畑で桑の葉を収穫し、耕運機ではこんで蚕にたべさせる。大雨が降ってもやすめない。そのかわり、桑は成長がはやく、長雨でもよくそだつから安定した収入源だった。
蚕が糸を吐いて繭をつくる時期は練炭10個で蚕屋をあたため、明け方まで作業がつづいた。
最後の繭の出荷がおわると、菅野さんの父は出稼ぎにでて、母は自動車修理工場ではたらいた。
輸入生糸や化学繊維におされて繭の価格はしだいに下がり、逆に桑専用の肥料の値段は高騰する。福島市周辺ではりんごなどにきりかえ、福島県は「くだもの王国」になっていった。
阿武隈山地では平成になっても養蚕がのこったが、今も旧東和町でつづけているのは4軒だけだ。
農林水産省の統計によると、全国の養蚕農家数は、ピーク時の1929年には221万戸、1989年には5万7230戸あったが、2020年には228戸(福島県は25戸)になった。繭の生産量は1930年40万トン、1989年1062トン、2020年は80トン(福島県は14トン)に減った。
だが、高品質で希少な国産の繭は最近は値上がり傾向にあり、1975年と同水準の価格にもどっているという。
輸入米に対抗、付加価値をつける餅づくり
菅野正寿さんの父母は養蚕に力をいれたが、正寿さんは「出稼ぎをしない農業」をめざして1980年代から有機農業にとりくんだ。
1997年ごろ、父から経営を移譲されたのを機に養蚕をやめることにした。
日本政府は、ガット・ウルグアイラウンド交渉で、一定量の米を輸入する義務をうけいれ、1995年からミニマム・アクセス米の輸入がはじまっていた。99年度には関税をはらえば自由に輸入できるようになった。
「米価が下落する!」
米の輸入がきまったとき、菅野さんは直観した。
農家が生き残るには農産物に付加価値をつけなければならない。
当時、「野菜セット」を消費者にとどけ、年末のセットに餅をいれると好評だった。
祖母の言葉もあとを押した。草履を手作りしていた祖母は、伝統の知恵のかたまりのような人だった。彼女が餅や赤飯についてこんなことを語った。
「昔は月1回は仕事休みがあって、季節の節目には餅をくったんだぞ。赤ん坊が生まれたときや、1歳になったとき、入学式や結婚式、葬式……と、人生の節目節目にも、餅や赤飯をくったもんだ」
忙しい都会生活では、季節の節目も人生の節目もみえなくなってしまう。結婚式をあげないカップルも増えてきた。それでは節のない竹のようなのっぺりした人生になってしまう。
「節目節目に餅や赤飯をたべる文化を大切にして、ひろめる必要があるのではないか」
菅野さんはそうかんがえ、つかわなくなった蚕屋の一部を加工場に改装した。蒸し器や餅つき器、真空パックにする機械などをそろえて1998年ごろから餅の製造をはじめた。
コガネモチという品種の餅米でつくる餅は、腰が強くてやさしい甘みがある。阿武隈山地は、青豆や黒豆、大豆、よもぎなどが豊富で、里山の味を餅にとりこめるのも強みだ。
新型コロナウイルスの流行で、2022年正月から2カ月間で菅野さんの農家民宿に泊まったのは私たちをふくめて2組だけ。
「農業と民宿と餅づくりの3本の柱があるから、なんとかやってきているんです」
牛糞や食品残渣を堆肥に
旧東和町は、町ぐるみで有機農業を展開してきた。
2000年に農家が野菜を直売できる「道草の駅あぶくま館」(2006年から「道の駅ふくしま東和」)が、2003年には、農家や生協、牧場が出資して「堆肥センター」がオープンした。
600頭の牛を飼う山あいの牧場の隣に、工場のような建物がたっている。なかにはコンクリート製の長さ50メートルのプールのような槽が2つならぶ。
牧場からでた牛糞と、水分調整用の籾殻と少量の堆肥を右側の槽に投入すると、回転する巨大な爪で攪拌されながら発酵し、少しずつ反対側に押しだされる。
反対側ではカット野菜や鰹節、そば殻、昆布、麵くず、おから、飴のくずといった14種の食品残渣をくわえて、もうひとつの槽にうつしてUターンする。発酵した牛糞は70~80度という高温になっているからかたい飴玉もとけてしまう。往復をおえるとつみあげられてさらに発酵させ、半年ほどで完熟堆肥になる。
できあがった堆肥は木材チップのようなかわいた手ざわりで、においは香ばしい。大量の牛糞をあつかっているのに、工場には糞尿独特の刺激臭はない。
堆肥は、軽トラック1杯(1立方メートル)3000円で農家に販売している。同時に、食品残渣という産業廃棄物の処理料金を食品業者からうけとっている。それぞれ年間4000万から5000万円の売り上げになっている。
堆肥は、二本松市内だけでなく、郡山市や山形県の農家にも売っている。需要増に対応するため、2021年には工場を増設した。
「牛の糞を処分するのは手がかかるから、牛舎からだしてすぐ処理できるのがありがたい。食品残渣を石油で燃やさずリサイクルできるから業者さんにも役だつ。肥料が手にはいって農家もよろこぶ。もちつもたれつでできています」
施設の隣で牧場を営む菅野(かんの)寿市さん(1967年生まれ)は語った。
大根のひきな炒り
野菜がとぼしい冬の食卓は大根と白菜がつづく。千切りの大根を炒ることで量が減ってたっぷりたべられる。ごはんにのせても、餅にからめてもおいしい。
▽材料(4人分)
・大根 中1/2本
・タカノツメ輪切り 1本分
★醤油・みりん・酒 各大さじ2
★砂糖 大さじ1
▽作り方
①★をまぜておく。
②大根を少し太めの千切り。
③熱したフライパンにサラダ油をひき、②とタカノツメを炒める。
④大根がすきとおったら、①をくわえ、汁気を飛ばすように炒める。
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