
『メガロポリス』はフランシス・フォード・コッポラ監督が1970年代後半の苦闘の末、傑作『地獄の黙示録』(1979)を公開した直後から構想し、40年以上の歳月をかけて完成した作品。
それも私財を投じて制作した、いわば自主製作超大作映画です。松竹試写室での鑑賞直後、これは尋常ではない作品だとまず驚愕。
スクリーンにはコッポラ監督の脳内にある近未来の世界観と未来ビジョンが、途轍もなく豊饒なイメージで全編に溢れていて、ちょっと普通でない面白さに圧倒されます。
そして、ここに到達するまでのコッポラ作品、とりわけ『ゴッドファーザーPARTⅠ~Ⅲ』、『地獄の黙示録』(オリジナル版&特別完全版)などを思い返してみると、『メガロポリス』をより楽しめるのではないでしょうか。

コッポラの『地獄の黙示録 特別完全版』(2002)が公開された時、立花隆氏が『解読「地獄の黙示録」』という本を出版しました。そこで彼は『地獄の黙示録』を「映画史上最も特異的に面白い作品だと思っている」、「この映画は、内容の深さにおいて、はじめて世界文学に匹敵するレベルで作られた映画である」と言い、単なるエンタテインメント映画ではなく「文学的な批評」の対象になる映画であるとしてオープニングからラストシーンまで(特別完全版はオリジナル版より53分長い)様々な角度から分析し、批評しています。
たしかに『地獄の黙示録』は当時も今もずば抜けて衝撃的に面白く、「世界文学に匹敵するレベルの映画」という言い方もそれなりに頷けます。
ふつう「世界文学」といえば、たとえばサマセット・モームのエッセイ「世界の10大小説」に出てくる19世紀の大作家、ディケンズ、スタンダール、バルザック、トルストイ、ドストエフスキーらの有名作品や、20世紀でいえば戦前の『ユリシーズ』や『魔の山』とか、戦後の『百年の孤独』とかをイメージしていいのでしょう。

自分がどの作家のどの作品を読んでいるかは別にしても、多数の言語に翻訳されていて、この人間の世界とはいったい何なのかを描きつくそうとした文学を「世界文学」と考えれば、『地獄の黙示録』という映画をそういうイメージの中で捉えてみるというのはたしかにすごく面白く、意味のあることだと思います。
なぜ、こういうことにこだわっているのかというと、『ゴッドファーザー』(1972)を撮った時点で、すでにコッポラ監督は、おそらく上に挙げた作家や文学を読み耽り、考え抜いて、「世界文学」的映画を志向していたと思うからです。それは2年後に『PARTⅡ』が公開されてより明確になります。
上映時間3時間を超え、完璧に構築されたこの続編を観たとき、『PARTⅠ』を凌駕する世界レベルの傑作だと確信し、その時点で、私にとっては黒澤明監督の『七人の侍』とともに、まさに「映画史上最も特異的に面白い作品」でした。

そして、その数年後1979年『地獄の黙示録』が公開され、『メガロポリス』を構想した1980年代へと繋がります。
『メガロポリス』は数多の世界文学が取り組んできた、この世界をどのようなものとして把握し、この人間世界は何処へ向かうのかという命題について、思考を重ね、行動し、苦闘してきたコッポラ監督の脳内のヴィジョンをできる限り映像として残そうとした作品です。

もしかすると古代ローマと近未来のニューヨークをビジュアル的、ライフスタイル的に混淆する世界観に抵抗がある観客もあるかもしれませんが、どこまでもコッポラ監督の脳内イメージとして受け止めるところに面白さが生まれるでしょう。
都市のビジュアルもキャラクターも含めて、すべて映画でしか描けないコッポラの「世界」イメージの表現が高密度で集積していて、やはりその面白さは比類がないと思います。
●DAS総合デザイナー協会特別顧問 園崎明夫
〇『メガロポリス』 6月20日(金)より全国劇場で公開。関西では、大阪ステーションシティシネマ、なんばパークスシネマ、MOVIX京都ほか。

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