〈走ってみたかった〉 空襲被害者の言葉   文箭祥人

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2月19日、広島にあるSocial Book Cafe ハチドリ舎で「連続講座:被爆80年に向けて「ヒロシマ」を再考する被爆者の言葉・生き方の重みに触れる」というイベントがあると、ハチドリ舎の店主安彦恵里香さんがフェイスブックにアップしていた。「被爆者に多くの聞き取りを行った社会学研究者の根本雅也さんをはじめ、それぞれが出会った言葉や生き方を振り返りながら、一緒にお話ししませんか」と参加を呼びかけていた。私は「これは行かないと」と思い、大阪から広島へ。

連続講座の後半はハチドリ舎に集まった人それぞれが〈被爆者の言葉〉を振り返る時間となった。それぞれが〈被爆者の言葉〉について話すのを聞きながら、急に思い出したのは、大阪空襲で被害を受けた女性の言葉だった。

〈走ってみたかった〉

この女性は生まれてから一度も走ったことがない。

体験談が残っている。

〈大阪市阿倍野区の自宅で1945年3月13日に生まれて、2時間後の午後11時50分頃、大阪の上空にB29爆撃機が270機も現れました。無差別攻撃の始まりでした。祖父が庭に防空壕を作っていました。父と祖母が、防空壕の方が安全だと思い、母と産まれたばかりの私を自宅から布団ごと引きずって運んでくれました〉

防空壕は二人が入るといっぱいだったという。

〈防空壕の中に焼夷弾が落下してきました。私の産着にも火が移りました。母は火に追われるようにして防空壕の中から這うようにして逃げ出し、「中に赤ちゃんが…!」と大声で叫び続け、その声を聞いた男性が防空壕の中に飛び込み、私を助け出して下さったのです〉

しかし、左足に大やけどを負う。病院に運ばれたものの薬がなく、処方されたのはアカチンだったという。

〈左足は大やけどでケロイドになり焼けただれ、膝の関節から下は内側にグニャリと曲がり、細く短い変形した足のまま成長せず、歩くことができないので、何時も母の背中に負われたり、乳母車に中に入れられていました〉

その後、左足は切断された。

体験談に「祖父が庭に防空壕を作っていました」とある。当時、政府は〈逃げるな、火を消せ〉という内容の防空法という法律を制定し、空襲で火災が起こっても、すぐに消火にあたるよう国民に求めた。祖父が作った「防空壕」は避難する場ではなく、消火のための一時的な「待避所」だったということになる。さらに、政府は国民に「焼夷弾も心がけと準備次第で容易に消し止め得る」「空襲は決して恐れるに足りない」と宣伝した。防空法、でたらめの情報により、空襲被害は拡大した。

私は放送記者時代の2007年から大阪空襲の取材を始めた。2008年に「大阪空襲訴訟」が始まる。空襲被害者に対して、戦争を始めた国は何らの謝罪と補償も行っておらず、原告23人が国を相手に裁判を起こしたのだ。原告らは裁判と並行して、空襲被害者に対する補償法の制定を求める立法運動にも取り組んだ。裁判は敗訴し、法律も未だできていない。この未解決の空襲被害者の補償問題に私は長く取り組んできている。その中で、知り合ったのが、この女性だ。

〈走ってみたかった〉の言葉を聞いたのがいつだったか、はっきりとは覚えていない。相当前であるのは確かだ。ある集会で、この女性が体験談を語ることになっていた。体験を語る前に、私に小さな声でこの言葉を話したのを覚えている。集会ではこの言葉を話さなかった。

13年前に書かれた体験談はこう締めくくる。

〈戦争のため、67年間、放置されてきた苦しみを二度と繰り返さないためにも、これからも自分の体験を伝えていきたいと思います〉

3月13日は大阪空襲から80年にあたる。この女性の誕生日でもある。生まれてから一度も走ったことがない空襲被害者の〈走ってみたかった〉の言葉を伝えていきたいと思う。

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