大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」21(京都編7) 安富信

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世界に2つしかない宗教記者クラブ

宗教担当になった。ところで突然だが、宗教記者クラブって世界に2つしかないらしい。裏は取れていないが、多分。1つはもちろん、京都にある宗教記者クラブ。これは東西両本願寺で正式に認められている。もう1つは? 筆者が大学で教えているマスコミ論の授業でもよく聞く。「世界で2つだよ。ということはもう1つは海外」と言うと、聡い学生は正解を出してくれる。皆さんも考えてみてください。わかりました?
そう、もう1つの宗教記者クラブはバチカン市国にあるローマ教皇庁にあるらしい。新聞は「ローマ法王」と表記するが、バチカンでは「ローマ教皇」と呼ぶ、その教皇を選ぶ選挙(コンクラーヴェ)の際に取材できるのは事前に登録されている記者だけという制度があるらしい。まあ、これは、京都宗教記者会がいかに「国内でも世界的にも珍しい」ということを喧伝する話なので、信憑性は高くない。すみません。この話のついでにいつも話すことがある。「では、世界で1つしかない記者クラブが京都にあります。なんでしょうか?」。その答えは? 次回以降にしよう。
ところで、その「京都宗教記者会」と表示されている部屋が東西本願寺内にある。正式には、お東は真宗大谷派、お西は浄土真宗本願寺派である。宗祖親鸞聖人の浄土真宗は、長い歴史を経て東西本願寺のほかに8宗派あり「真宗十派」と呼ばれていたが、現在は16派もあるらしい。まあここで、浄土真宗に触れると、詳述しなければならないが、出来るだけ簡単に記す。

信長・秀吉・家康がもたらした浄土真宗の東西分裂

東西本願寺は、わが国の仏教教団の中でも、その信者数(門徒とか宗徒と呼ぶ)と末寺(全国にある本願寺系のお寺)の数は国内最大だ。一説には両本願寺とも末寺1万門徒1000万人、と称していたと記憶するが? わが国の仏教界で2大宗派であることは間違いない。それだけに、両本願寺からは目が離せない。特に、何かと物議を醸してきたのがお東さんだ。
「お東紛争」。聞いたことがあるだろうか? 宗教担当になるとまず、この紛争の歴史を勉強しなければならない。まあ、これも詳しく書くと、大変なことになるので簡潔に。それでもかなりややこしいが、今後の京都の宗教界を理解するために必要なので、しばしご辛抱を。多分に筆者的にわかりやすい解釈をしているので、専門的な反論はご容赦を。

浄土真宗本願寺派(西本願寺)の門  西本願寺境内

そもそも、浄土真宗はわが国に於ける初の“宗教改革”だと筆者は理解している。平安時代に仏教は隆盛を極めたが、「貴族宗教」と言われ、庶民には遠い存在になっていた。そんな時、法然上人が浄土宗を開き、弟子の親鸞聖人がその教えを受け継ぎ「念仏一つで救われる」と浄土真宗を開いた。それが鎌倉、室町を経て庶民に広まり、そのうちの1つ本願寺派は戦国時代には「一向一揆」を起こすほどの大教団に育った。本願寺派は現在の大坂城の場所に石山本願寺を築き、織田信長と対立した。
「石山十年戦争」といわれた激しい戦火の末、信長の勝利に終わり、本願寺は石山から撤退、和歌山に移った。信長との対峙でトップの顕如と長男教如が対立し、顕如は教如を廃嫡(勘当のようなもの)し三男を跡継ぎに指名。これが本願寺東西分裂への第一歩になった。やがて信長が本能寺の変で亡くなり、豊臣秀吉は顕如に京都堀川七条の地を与え、本願寺は京都に戻る。これが現在の西本願寺である。その後、顕如の死亡に伴って秀吉は後継に教如を指名、三男准如を推す勢力とお家騒動が起きる。結局、秀吉の裁定で本願寺の宗主は准如とされ、教如は再び本願寺から追い出された。しかし、秀吉も亡くなり、天下を取った徳川家康に教如は取り入り、京都七条烏丸の地を寄進される。現在の東本願寺である。

大谷家と内局が対立、「お東紛争」へ

その後、江戸、明治期を経て、東西本願寺はそれぞれ発展を続けたが、戦後、東本願寺に大きな試練が訪れる。それがお東紛争だ。しかし、単なる一宗教教団がなぜ、マスコミや世間を大騒ぎさせることになるのか。それは、真宗大谷派が持つ強大な資金力や人脈にある。これに利権を狙う怪しい輩たちが巣食う。
同派では特に明治以降、親鸞聖人の血筋(血脈=けちみゃく)を引く大谷家の当主が3つの地位(これを「三位」と呼ぶ)を一元的に継承する。1つ目が親鸞に血を引く生き仏としての「法主」(ほっす)、2つ目が宗教法人真宗大谷派の代表役員である「管長」(かんちょう)、3つ目は本山である東本願寺の代表役員である「本願寺住職」である。キリスト教における「三位一体」に似ている。それほど、大谷家の当主には権力が集中しているうえ、天皇家とも姻戚関係にあった。
その絶大な権力者であった大谷家の第24代光暢師が昭和44年(1969)、突然、内局(同派の内閣のようなもの)の事前承諾を得ずに、管長職だけを長男の光紹師に譲ると表明した。これを機に以前から改革を目指していた宗派との内部対立が激化した。昭和53年(1978)に光暢師は「自分が住職をしている東本願寺は真宗大谷派から離脱・独立する」と宣言。昭和56年(1981)には真宗大谷派宗憲(宗派の憲法にあたる法規)が改正され、僧侶の代表である宗議会と門徒の代表である参議会の二院制をとり、従来の「法主」「管長」「本願寺住職」に代わり、門徒・同朋を代表する象徴的地位として「門首」(もんしゅ)とされ、大きな権力が削がれた。光暢師と宗派の対立はさらに泥沼化した。

利権争い、検察も捜索

こうした対立構図に介入したのが利権を狙う輩だ。光暢師は福祉施設の建設などの大型事業に手を出し、約束手形の乱発や財産売却を独断で進めていた。その代表的なものがいわゆる「枳殻邸事件」である。江戸時代寛永18年に将軍家光から寄進され、池泉回遊式庭園として名高い飛地境内の「渉成園」(京都市下京区、通称枳殻邸)が宗派の手続きのないまま売却されていた。宗派は背任罪で光暢師を告訴、昭和55年(1980)には京都地検が関係先を捜索する事態になったが、事件は光暢師と宗派側両者による「即決和解」で急転解決した。宗派側が告訴を取り下げ、光暢師らがつくった債務をすべて肩代わりする代わりに光暢師側は東本願寺住職の地位などを宗派に移す、という内容で和解した。法主を門首という象徴的な存在に改めるなどの抜本的な制度改革が行われた訳だ。騒ぎは収まったように思われたが、昭和59年(1984)には国宝で親鸞聖人直筆の「教行信証」(浄土真宗立教開宗の書)が一時紛失するというおまけもあった。
要するに、筆者が宗教担当になった頃にもめていた古都税紛争の前に、お東紛争があったということだ。歴代の宗教担当記者たちは長年、こうしたもめ事に突き合わされてきただけに、新人記者のような素人では歯が立たない。読売京都支局でも前任のNさんこそ1年少しと短かったが、その前のN尾さんは5年近く、その前のB先輩は10年以上も宗教担当だったと聞く。

東本願寺宗務所   西本願寺宗務所
京都宗教記者会の記者室(東本願寺) 司馬遼太郎が座ったとされる椅子  京都宗教記者会の名簿がかかる西本願寺の記者室(お西)

「西」の記者クラブで昼食 司馬遼太郎の椅子に座る

日本最大の宗教教団の2つの本山が、七条の烏丸通りと堀川通りに面して林立。記者たちにきちんと言い分を書いてもらいたい宗派内局は宗務所(宗派の業務を担当する役所のようなもの)内に記者室を造って記者発表資料などを配布する。京都、朝日、毎日、読売、産経、NHK、共同通信と業界紙の文化時報の記者は常駐しており、普段はお東の記者室に詰めていた。但し、お昼休みになると、お西の記者室にみんなで連れ以て移動した。
お西の記者室にはKさんという記者室の面倒を見るベテラン女性がおられて、昼前に必ず、「お昼ごはん、食べに来ませんか?」とお誘いの電話が入った。食い意地が張っていたぼくたちは、情けないことにそれに引かれて行った。食べるのは宗務所の食堂で作ったうどん定食をタダでいただいた。すみません。ついでに言えば、このお西の記者室には有名な椅子があった。誰もが一度は座って大作家になる夢を見る。司馬遼太郎が産経新聞京都支局時代、宗教記者会に所属し、いつもこの椅子に座って本を読んでいたという。残念ながら筆者の夢は叶わなかった。
紛争がなければ、本来は極めて文化の香り高く、アカデミズム満載なのが宗教担当だった。浄土真宗だけでなく、浄土宗、臨済宗、天台宗など宗派の総本山などが古都に集しており、北法相宗という末寺を持たない清水寺、臨済宗相国寺派の塔頭の一つだが、その美しさを誇る金閣寺(鹿苑寺)、銀閣寺(慈照寺)などの有名寺院などが目白押しで、「高僧」と呼ばれ尊敬されている僧侶もたくさんいた。

飲酒運転の高僧追って祇園へ

よく聞かされた話だ。107歳で亡くなった清水寺の貫主・大西良慶師(1875~1983)は五つ子の名付け親としても有名だが、なかなかの高僧だった。新聞社は、有名な方が高齢になると急遽亡くなった時の対応のために「死亡予定稿(亡者)」という記事を書くために取材をさせる。京都宗教記者会が年に一度お誕生日に近い日に「お祝い」と称して取材を申し込む。良慶師は「ご苦労様です。すみませんね、まだ死んでなくて」とほほ笑んだという。ついでに言えば、高僧の書は“家宝”になると言って取材のたびに、墨蹟を書いてもらった記者もいたという。墨蹟には半紙にただ「〇」が書かれていたそうだ。
紛争ばかりを取材していると僧侶を敬う気持ちは薄くなる。思い出したことがある。少し時代が遡るが、まだ宗教担当になる前には偉そうな先輩たちから現場取材を指示された。当時、読売新聞は古都税に関して市役所側に理解を示し、朝日新聞は仏教会を応援しており、“代理戦争”の様相を呈していた。市役所担当のHさんと宗教担当のN尾さんから別々に指令が出てNさんと筆者は手下のように使われた。仏教会の会議が清水寺であると深夜零時近くまで門前で待った。他社の記者もそうだったが、会議を終えた僧侶にぶら下げって質問する。お酒を飲んでいるらしく顔が赤い。質問者が読売とわかるとあからさまに拒否されたり、「読売には言うことはない」と面罵されたりした。飲酒運転の高僧の車を祇園までタクシーで追いかけ、飲み屋さんで口論になったこともあった。
そんな毎日だったが、立派な僧ももちろんおられた。元京都仏教会事務局長の鵜飼泉道師や、1950年の金閣寺炎上を目撃した臨済宗相国寺派宗務総長を務めた故江上泰山師、清水寺の元貫主・故松本大円師らは、比較的言動が理解できた。半面、臨済宗相国寺派管長の有馬頼底師や、故清滝智弘・広隆寺貫主らの当時の言動には今でも賛同しかねる。個人的な見解だが。追伸。年末になると、今年の漢字一字を書く清水寺の現在の貫主さんも、若いころをよく知っていますが、当時の言動が褒められたものではなかったので、嫌いです。(つづく

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