【福島の有機の里で①】土を信じて放射能とたたかった10年  藤井満

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 2011年3月、福島第一原発が爆発した。「安全安心」の野菜を首都圏などに届けていた福島県の有機農家にとっては致命的な事態だったが、「耕して種を播こう」と、事故後も耕作をつづける農家がいた。阿武隈山地と二本松市の平野部で放射能汚染に立ち向かった農家の10年を紹介します。
(「月刊むすぶ」で2021年4月号から書いている記事の一部転載です)

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降り注いだ放射能

 2011年3月は穏やかな天気がつづいていた。ほうれん草は地面をはうように葉を広げ、ネギもすくすく育っている。例年より早めにまいた春野菜も芽を出し、豊かな稔りを予感させた。
福島県二本松市のJR二本松駅から約2キロ、標高220メートルの阿武隈川沿いの盆地で有機農業を営む大内督さん(1973年生まれ)は野菜の出荷を終えて車で帰宅する途中、3月11日午後2時46分を迎えた。
二本松市でも震度6弱を記録したが、自宅の被害は、食器棚の皿が崩れ、土壁が少しはがれた程度。だがまもなく空が暗くなり大粒の雪が降ってきた。この世の終わりのような不吉な光景に思えた。
長い停電から復旧すると、テレビに映った津波の被害に督さんは絶句した。
さらに福島第一原発では12日に1号機、14日に3号機、15日に4号機が水素爆発する。放射能に追い立てられるように太平洋岸から約7000人が避難してきた。
避難所にはパンやおにぎりしかない。農家が野菜を持ち寄って炊き出しをはじめる。畑のほうれん草をおひたしにして、豚汁を大鍋でたいた。あたたかい豚汁のまわりには、くんくんと鼻をならして子どもたちが集まってきた。避難所を視察に訪れた二本松市の市長は「二本松は牛乳がいっぱいあっから、明日からは牛乳も出すぞ」と言った。
だがその日の夜、ほうれん草も牛乳も出荷停止になる。牛乳は山の沢水を飲ませている地域でセシウムが出た。自然のなかで健康に育てていた牛がまっさきに放射能にやられた。
それからは露地のほうれん草は出せない。貯蔵していた白菜や大根で炊き出しをつづけた。

野菜の声を聴く

督さんの父、信一さん(1941年生まれ)は有機農業を1970年ごろから手がけ、78年に二本松有機農業研究会を結成した。提携する消費者に直接野菜を届け、田植えや稲刈り体験などを受け入れて消費者とのあいだに顔の見える関係をはぐくんできた。
原発事故の放射能が降り注ぐなか、督さんと信一さんは、ほうれん草や小松菜、キャベツなどをすべて引っこ抜き、畑の隅に積み上げていった。野菜に対して申し訳ない。むなしくてつらい作業だった。「もう二本松で有機農業はできないのではないか」と督さんは思った。
一方、父の信一さんは「つくってみなければわからん。だめなら耕耘してしまえばいい」と、例年と同じように畑を耕し、種を蒔き、野菜を植えつける。ためらうことなくひとりでどんどん作業を進める。
督さんは父の行動が理解できなかった。
「こんな状況で田起こしをしていいのか、種をまいていいのか。1年間様子を見て、研究機関とかの調査の結果を見てからの方がよいのではないか……」と悩んだ。

父の信一さんは当時なにを考えていたのか。
原発事故後、「だれも外に出るな、放射能がどんどん降ってくんだから」と言われるなか、信一さんはほうれん草畑を見に行った。雪が解けて最初に種をまくのがほうれん草だ。すでに直径20センチのロゼット状に育って畑の土を緑の葉が覆っている。
「僕らが畑を守ったよ」
ほうれん草の子たちが言った。
「なんかおかしな食べ物がいっぱいあるよ」
「おいしくないんだよな~」
「でもおなかがすいたらこれも食べざるを得ないなあ~」
おかしな食べ物とはセシウムのことだ。
「やっぱり堆肥や有機質の栄養のほうがおいしいな~」
セシウムは食べたくないけれど、腹が減れば食べざるを得ない--。そんなほうれん草の叫び声が聞こえ。軽トラック10台分のほうれん草を捨てながら、ほうれん草が自分の身を犠牲にして土を守ってくれたと思った。
一方、膝ほどの高さまで育っていたネギは
「私たちはスベスベしてっから、放射能をまったく受け付けませんよ。根っこからも吸わねから、すぐに食べられるし、出荷できますよ」と言った。
実際、ほうれん草や小松菜はどんなに洗っても1㎏あたり800から千ベクレルのセシウムが検出されたが、ネギだけは水洗いすれば放射能は出ず、4月から出荷できるようになった。
「ネギは肌がすべすべで、病気になっても農薬がすべって流れてしまうから効かないと言われています。そういう知識があるから、おやじはネギがそう言ったように感じたんだと思います」と督さんは振り返る。

かつて東北は5年10年に一度は大冷害に見舞われた。大冷害の年はお盆でもこたつがほしくなる寒さだった。田んぼはあきらめるしかないと思った。常識では、夏の気温が15度以下では稲の花粉ができず実を結ばない。ところがそんな年でも、ふだん(1穂で約100粒)の2割か3割は実がつまっていた。
「おう、お前たちどうしたの!」と信一さんが稲に尋ねると、
「この寒い夏に、この土でこの稲の体では、みんなで生きたら全滅するぞって相談して、『俺はここで死ぬからお前、元気そうだから生きて子孫を残せ』と話し合った……」
そういう稲の声が聞こえてきたという。
「大冷害の時と原発の時に、私は作物のなかからそういう声が聞こえたと思う。だから原発事故でも作物の強さとか、賢さを信用してみようと思った」と信一さんは2013年に開かれた「使い捨て時代を考える会」の講演会で語った。
督さんは父が野菜とそんな会話を交わしているとは気づかなかった。でもたしかに自分でも稲や野菜は家族のように思える。
「土をさわるのは楽しいし、田んぼにずっといても苦にならない。天気が荒れて強風にざわざわ揺れているのを見ると『がんばってるなぁ』と思う。農作業中はひとりだから話す相手が野菜と土しかない。友だちでもあり子どもでもあるような感覚になるんです」

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