大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」56(見習いデスク編4) 安富信

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初の自衛隊海外派遣PKO

 嫌な思い出しかない第2期京都時代。滞在わずか1年半なので3回くらいですっと書き抜けるはずだった。だが、意外にも書き忘れていることが多い。仕方ないので、つらつらと書く。
 まず、日本の戦後平和政策にとって、大きな変革の始まりと言ってもいい「国連平和維持活動」、いわゆるPKO活動だ。カンボジアに自衛隊が派遣され、内戦後の復興を支援しようというものだが、戦後、日本の自衛隊が初めて海外に派遣された画期的な出来事だ。その後、アフリカや中東の紛争地帯に平和維持活動として派遣されるようになる第一歩だ。1992年(平成4年)9月以降、自衛隊が国際平和協力法に基づいて国際連合平和維持活動(PKO)の一環として、カンボジアへ派遣されたことをいう。自衛隊からは施設大隊(施設科部隊)及び停戦監視要員が派遣された。同時に、自衛隊以外からは文民警察要員及び選挙監視要員の派遣も行われた。
 ある意味で日本の戦後史で画期的な派遣であるだけに、マスコミ各社はこぞってカンボジアに記者を派遣した。読売新聞も当然、取材班を結成した。海外取材はもちろん、東京本社国際部の管轄だが、何故か東アジアや東南アジアとなると、大阪本社にお鉢が回ってくる。筆者が1991年4月の中国上海列車事故に行かされたように。

PKO活動が可能になった法案成立

 果たして、社会部から2人、地方部から2人が派遣されることになった。社会部は遊軍と支局から。地方部は本社にいる若い記者と総支局から選ばれ、1人が京都総局学研支局のF島さんだった。総局のM原さんやH中さんと同期で、しょっちゅう総局に泊まりなどで上がって来ていたので、筆者もよく酒を飲んでいた。H中さんが「F島君の激励会をやりましょう!」というので、総局の若い記者たち10人ほどでやった。当時、カンボジアには地雷があちこちに埋もれていた。今もだが。本音を言えば、そんな所に行きたくはない。筆者もこの時ばかりは「デスク見習い」の立場に感謝した。卑怯な男です。他の若い記者たちも、選ばれなくて良かった、という思いとF島さんへの後ろめたさが同居していただろう。それだけに、盛り上がらない激励会だった。「こんな時は、水盃で送るんですよね?」と言うH中さんの提言に、ぎこちなく杯を上げたが、違ってるよね? まあ、F島さんは、数週間後、無事に帰って来たが。

ゴルビー夫妻が京都へ

 もう一つ、面白いエピソードを忘れていた。それは、ゴルビー夫妻の来日だ。旧ソビエト連邦書記長で、初代大統領のゴルバチョフ氏とライーサ夫人が平成4年(1992)4月に来日。当然の如く、海外の要人は日本の古都を訪れた。この時はゴルバチョフ財団の理事長で、日本側は読売新聞の関係機関が招聘した。最後のソ連書記長で初代大統領が来京するのだから、読売新聞京都総局は大騒ぎだ。わずか1泊2日の日程で京都に滞在しただけだったが。ライーサ夫人とお付き20数人だったと記憶する。京都市内の有名寺院や能舞台などを京都総局員がアテンドをした。総局3席の筆者たちは数十日前から京都府警と警備の打ち合わせをしたりマスコミ各社に事前説明をしたりした。当日も要所に待機して、報道陣に案内などもした。しかし、この時、最も大変だったのは、Y総局長だった。それは後述するとして筆者はこの時、初めてナベツネに会った。それも、ほぼ1人、サシで。

早朝の総局へ突然のナベツネ来訪

 4月18日朝、ゴルバチョフ一行が新幹線で到着する数時間前だった。中京区木屋町御池にある読売新聞京都総局に筆者は早朝から詰めていた。泊明けの記者数人と筆者しかいなかった。そこに総局前にタクシーが止まり、初老の御仁が階段を1人で上がって来た。総局のソファで新聞を読んでいた筆者に御仁が言った。「君は総局のデスクかな? 私は渡邉だ」。飛び上がった。テレビで見たウチの主筆だ。「しゃ、社長、お一人ですか。秘書の方は?」。恥ずかしながら声が裏返った。「ああ、秘書はなんだかんだと煩いから京都駅で撒いて、タクシーで来た」。しれっと言う渡邉さんは、次から次へとこれから向かう施設や京都に地理について的確な質問を繰り出し、汗まみれで答える筆者にわずかに微笑んで、「デスクは大変だな」と15分ほどでタクシーに戻った。しばらくして、総局長や次席が出勤して来たが、筆者の言うことを信じようとしなかった。

必死で探した天ぷら店、ゴルビーはドタキャン

 昼間の視察は無事に済んだ。異変が起きたのは夜になってからだった。というのも、夜、ライーサ夫人の希望で、ゴルビー一行は祇園の天麩羅屋さんでお忍びの会席を楽しむはずだった。Y総局長は、この席の設定に数週間前から心血を注いで来た。「京都の夜はお忍びで。天麩羅を」との東京本社からの指示を受け探し回り、総局宴会担当のベテラン記者N田さんらの知恵を借りて、ようやく貸し切りに漕ぎつけた店だった。京都の商売人は、なかなかしぶとい。「お忍びで食事をした」という記事を数日後に掲載するという約束で貸し切りを了承した。ところがライーサ夫人が直前になって「行かない」と言い出した。”愛妻家”のゴルビーは自分も行かないと言う。仕方ないので、お付きだけが来店した。頭を抱えたのはY総局長。「京都の街で生きて行かれへん」。確かに信用が一番の古都の世界では、厳しい出来事だった。一段落した深夜、Y総局長は行方不明になった。本社から部長連中が何人か来ていて、総局近くの居酒屋で打ち上げをしていたが、Y総局長はいない。後に社会部長になるKさんが事も無げに言った。「Y君の行く店くらい知っているやろ?連れてこい」。筆者は知っていた。仕方ないから呼びに行き、彼は戻った。翌日、店の女将らがゴルビー一行の泊まるホテルに行き、ライーサ夫人らと写真に収まり、翌々日の京都版に掲載された。総局長は京の街で生き残った。

ゴルバチョフ夫妻の来京を伝える京都版

俺の店にくるならスパイになれ

 前にも書いたが、Y総局長は非常に気前の良い人だった。記者の先輩の中には「シブチン」もいた。第一期京都時代のY川支局長は、かなりのシブチンだった。初めてサシで飲みに行こうと誘ってくれたが、店に入ると品書きを見上げて「500円以上の物は頼むな」と真顔で言った。2軒目のスナックに連れて行くと、「この店はオレの店だから、いつ来てもかまへんよ。但し、オレのスパイになれ。支局内のことは逐一、報告しろ」。すぐに断って店を出た。アホらし。「京都生態学」の県版連載が見つかったので、1話遅れだけど、掲載する。


名作の県版連載「京都生態学」

という訳で、社会部枚方支局に転勤となった。9月末に開かれた総局送別会で若い記者たちと大騒ぎした。小泉今日子の「渚のハイカラ人魚」をパロディにしたちょっとエッチな替え歌を女性記者も交えて歌って踊った。セクハラだった。三田の新築の家に妻と子どもたち3人は住むことになったが、筆者は枚方支局長としてマンション1室の支局に住み、週末に帰宅する単身赴任だった。ともかく転勤だ。後になって聞いた。当時、小学2年生だった娘は京都の小学校で川柳を習っていた。初めて句が特選に選ばれた。「がまんする なみだこらえて 転校だ」。父は涙をこぼした。(つづく)

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