大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」26(社会部編2) 安富信

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1984年3月18日、江崎グリコ社長誘拐

加藤譲さんの執念の源は何なのか? その答えのヒントを「未解決事件 グリコ・森永事件 捜査員300人の証言」(新潮文庫、NHKスペシャル取材班著)の加藤さんが書いた解説に見る。何と9㌻もある。その中の一文を抜粋する。
「事件はバブル経済に入る直前に起きた。日本社会の地下に広がる闇の水脈の一つが噴出したのか。高度情報化、都市化、大量消費社会の盲点を突いた空前の事件。何とか犯人らの仮面を暴きたい、事件の真相に近づきたい。私は、事件当時に担当だったという因縁と、旧いブンヤの意地だけで取材を続けてきた。(中略)21面相は社会の海に潜ったままだ。法的な時効は過ぎても、社会的には時効はない。悪のパフォーマンス。劇場型犯罪は後を絶たない。グリコ・森永事件は元凶である。事件は多くの課題を残した。それらは警察だけでなく、企業や報道、そして市民一人ひとりが負わなければならない。市民社会を守るのは我々自身である。事件は終わっていない」(平成30年4月、元読売新聞記者)。
事件を追った記者の心からの叫びだ。誰も殺さなかったとはいえ、グリコ・森永事件の犯人グループが残した社会への爪痕は大きい。あれから40年近くが経過した。事件そのものを知らない人も多いだろう。少し、概要を振り返ってみよう。
昭和59年(1984)3月18日、江崎グリコ社長宅に2人組が押し入り、入浴中の江崎勝久社長を誘拐。翌19日、取締役宅に男の声で電話が入り、「人質はあずかった。現金10億と金100㎏をよおいしろ」と言った内容の茶封筒が見つかり、「茨木のレストラン寿 一人で連絡を待て」という江崎社長の声のテープも届いたが、犯人グループからの接触はなかった。事件から4日目の21日、監禁されていた大阪府茨木市内の水防倉庫から江崎社長が自力で脱出した。

江崎・グリコ社長誘拐から無事保護を伝える記事。これが一連のグリコ・森永事件の始まりだった。

4月2日、江崎社長宅に脅迫状が届き、6000万円を要求(2回目のグリコ取引)。8日、犯人からメディア各社に1回目の挑戦状が届く。10日、大阪市西淀川区のグリコ本社などで連続放火事件が発生。12日、警察庁が広域重要114号事件に指定。6月2日、犯人グループから指示された現金受け渡し現場を捜査班が急襲、犯人を確保するが、その男性は犯行グループに交際相手の女性を人質にとられた替え玉だった。毎日新聞「犯人逮捕」の誤報を打つ。6月22日、犯人グループは丸大食品本社に「グリコと同じ目にあいたくなかったら5000万円を用意しろ」との脅迫状を送る。同26日、「グリコゆるしたる」と犯人からの犯行終結宣言がメディアに届く。

丸大、ハウス……森永には毒入り製品

6月28日、丸大食品は犯人からの指示通り5000万円を用意してJR高槻駅に向かう。現金受け渡し現場で張り込む捜査班は電車内で不審な動きを繰り返す「キツネ目の男」と遭遇するが、京都駅で見失う。翌日、「キツネ目の男」の似顔絵が作成され捜査の極秘資料となる。丸大とはもう一回取引を持ち掛けるも、現金引渡し場所に犯人は現れず、この頃、犯人グループはハウス食品など7社に脅迫状を送り付け、さらにジャスコなど4社にも脅迫状を出した。

グリコ・森永事件で最も有名な似顔絵「キツネ目の男」

9月12日、森永製菓に犯人から青酸固形、テープ、毒入り製品入りの脅迫状が届き、「1億出せ、応じなければ毒入り店頭に」。18日、現金引渡し場所に犯人現れず、20日に毎日新聞が「森永への脅迫状」をすっぱ抜く。10月8日、犯人からの7通目の挑戦状がメディアに届き、青酸入りの菓子をばらまくという内容。コンビニなど4府県16か所で青酸入りの森永ドロップなどが見つかる。森永製菓の商品は店頭から撤去され、株価は大暴落。損害額は70億円にのぼった。同11日には大阪府警は脅迫に利用された女の声と子供の声を公開し、15日には青酸入りの菓子が見つかったコンビニの防犯カメラに写っていた商品棚の前で怪しい動きをする野球帽の男の映像を公開した。

事件は、青酸ソーダを使い市民の命を人質にした凶悪な犯罪へとエスカレートした

犯人取り逃がし、滋賀県警本部長が焼身自殺

11月13日には報道協定が締結され、在版メディアは14日、ハウス食品に1億円を要求した現金引き渡しの瞬間を、固唾を飲んで見守った。この事件で最も犯人グループに近づいた日だった。
午後6時10分、現金輸送車がハウス本社を出発。7時25分、現金輸送車は京都市伏見区の和食レストラン「さと」の駐車場に到着。8時20分、ハウス北大阪出張所に子供のテープの声で「バス停城南宮のベンチの腰掛けの裏」の指示があり、同39分、「大津サービスエリア」への指示書を発見。同57分、大津サービスエリアの高速道路周辺案内図板の裏に指示書があり、「草津PAベンチ裏」。この時、「キツネ目の男」が大津サービスエリアに姿を現すが、「職務質問はするな」との上層部からの指示で、取り逃がす。
同9時15分、草津PAのベンチ裏に「名古屋の方え60㌔で走れ。白布の下に空缶」の指示書を発見。同18分、滋賀県警のパトカーが栗東町川辺の県道で不審なライトバンを見つけるも、見失う。1分後、乗り捨てられたライトバンを発見するも運転者は消えていた。9時45分、現金輸送車が白布地点に到着するも、空缶を見つけられず、同10時20分、捜査は打ち切られた。乗り捨てられたライトバンの車内から警察無線を傍受する機器などが残されており、犯人グループを取り逃がす大失態を犯していたことが判明した。
その後、犯人グループは森永との2回目の取引、不二家や駿河屋にも取引を持ち掛けたが、成立せず。翌年の昭和60年(1985)8月7日、滋賀県警の本部長が焼身自殺。同12日に犯人側から終結宣言が報道各社に届き、平成12年(2000)2月13日に完全時効が成立した。
一連の事件で、警察とマスコミは犯人グループの巧妙な手口に振り回され続け、市民を人質に取った悪質な犯罪を食い止めることが出来ずに、事件の解決を見なかったという戦後の日本社会で最悪の結果となった。読売新聞大阪本社はこの未曽有の難事件にどう立ち向かったのか?

黒田軍団「お取り潰し」、取材の支障に

その点について、加藤さんは「最悪やった。他社は東京も含めて大阪本社では5、60人規模の取材班を立ち上げて総力取材を続けているのに、うちの会社は十数人+神戸支局。当に孤軍奮闘やった。元々わが社は東京と大阪の仲が悪いうえに、大阪は社会部と地方部の仲も悪い。それに加えて、黒田軍団の浮沈がかかった時期で、黒田社会部長も斎藤府警キャップ(当時)もわが身が心配で、事件どころやなかったんや」。ここにも、黒田軍団の影が見え隠れする。
黒田軍団の勢いに翳りが見え始めたのが昭和58年(1983)夏ごろ。大阪の“独断専行”の紙面を快く思っていなかった東京本社。とくに、この頃から次第にグループ本社内での大きな力を持ち始めていた渡辺恒雄・読売新聞グループ本社代表取締役主筆らは黒田軍団の“お取り潰し”を図っていた。それに呼応したのが、大阪本社内にあった「反黒田軍団」派だ。
当時の大阪本社社長の故坂田源吾氏は元東京本社の運動部長。黒田社会部長とは永く蜜月時代が続き、大阪読売主催の「戦争展」に関連する連載記事に坂田自身が執筆したことがあるほどだったが、黒田軍団が東京に目を付けられていることを知り、“保身”を図った。59年夏のある日、社会部長の後任となるI氏宅にキャップ級数人が密かに集まったという。現代版「鹿ケ谷の陰謀」だ。黒田軍団追放の“血判状”を携えて坂田社長に直談判したという話も実しやかに伝わる。事実なら、筆者がかつて京都で加わった「血判状事件」とはスケールが違いすぎる。
坂田氏は昭和59年(1984)9月末、黒田さんの社会部長の任を解き、編集局次長専任とする事実上の左遷人事を断行。翌年3月の人事異動で、黒田軍団の四天王と呼ばれた斎藤氏とKさん、Sさんが地方支局に転出。現フリージャーナリストの大谷昭宏さんは、連載「窓」の担当でしばらく大阪本社内にとどまるが、後に黒田さんと共に社を去った。

「力良ちゃん事件」で記者クラブ追放 他紙記者は喝采

グリコ・森永事件が最も動いた59年3月からその年の終わりごろにかけて、読売新聞大阪本社は“お家騒動”の真っ最中だった訳だ。黒田社会部長や斎藤府警キャップは、「心ここにあらず」だったという。そのうえ、大阪府警にある読売記者クラブにはもう一つ大きな難題があった。江崎社長誘拐事件から10日後に大阪市内で起きた小学男児誘拐殺人事件の後遺症「読売ボックス閉鎖事件」だ。
昭和59年(1984)3月28日夕、大阪市大正区の喫茶店主の二男、市立平尾小1年だった宮城力良(ちから)ちゃん(当時7歳)が、喫茶店の常連客の男(当時36歳)に連れ去られ殺害された。自供に基づいて捜索したところ、翌29日午後1時半頃に遺体を発見し、午後2時25分に未成年者誘拐、殺人、死体遺棄容疑で逮捕された。問題はこの遺体発見時間だ。在阪の新聞にとってこの時間帯は魔の時間帯だ。夕刊の最終版締め切り間際だ。

力良ちゃん誘拐殺人事件を報じる3月30日付の読売新聞

力良ちゃん事件は、誘拐事件なので大阪府警は在阪のメディアと「報道協定」を結び、新聞、テレビは報道を自粛していた。この事件では、協定解禁が問題になった。容疑者が自供し、力良ちゃんの遺体が発見されたのだから、必然的に協定は解除されるはずだった。現に、読売をはじめ朝日や産経各社は夕刊に間に合わせるべく紙面づくりを急いでいた。しかし、毎日新聞が「夕刊に入れない」と通告してきた。それを聞いた朝日、産経は最終版への掲載を取りやめた。しかし、読売新聞は、黒田社会部長の「遺体発見で協定解除だ」との判断によって最終版に掲載した。これが大問題になった。
他社は「協定破りだ」と騒ぎ、半年間の大阪府警記者クラブからの追放、いわゆる「ボックス閉鎖」が決定された。このボックスというのは、後に詳しく紹介するが、簡単に言えば、読売新聞が大阪府警の一室を借りている記者クラブで、20㎡ほどの狭い部屋が各社に割り当てられており、そこに最大9人の事件記者が常時詰めていた。ここにいれば、一応、大阪府警の事件は広報されるシステムだ。だが、この件で、「記者クラブ追放、ボックス閉鎖」になったことで、読売新聞は捜査一課や二、三、四課、防犯課(当時)などの記者会見(レクチャー)を受けられなくなる。
そのうえ、これ見よがしに、ボックスのドアに×と成る板を産経の記者が張り付け、朝日の記者がそれを写真に撮り、他社の記者は拍手喝采したのを加藤さんらは遠巻きに見ていたという。競争から来るものとは言え、今聞いても反吐が出そうな光景だ。府警側は気の毒と思ったのか、庁舎の別の建物に仮のボックスを用意してくれたという。その年の9月末に閉鎖が解除されるまでは、連日、広報課に市内回りの記者を張り付けたという。
余談だが、ボックス閉鎖を解くために、他社は斎藤キャップの謝罪文を要求して来たが、斎藤キャップは頑として応じなかった。仕方ないので、府警サブキャップZさんが文章を書き、加藤さんがボックスに保管していた印鑑を押して“偽造”したという。斎藤キャップのあずかり知らないことだった。(つづく

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